天正10年(1582)の5月、毎晩のように同じ悪夢にうなされ、不眠症の織田信長は悪夢から解放されるために、とんでもない事を考えて実行に移します。
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青く不気味な三日月が出ていた。
天正十年(一五八二年)の五月、琵琶湖に突き出た安土の山の上に、この世の物とは思えない程、絢爛(けんらん)豪華な五層の楼閣(ろうかく)が月明かりに浮かび上がっていた。高く積んだ石垣の上にそびえ建つ、その楼閣は『天主(てんしゅ)』と呼ばれ、生きながら神になろうとした男、織田信長の居城(きょじょう)であった。
その天主内のきらびやかな一室で信長はうなされていた。汗をびっしょりかき、苦しそうに呻(うめ)きながら、「許せん!」と怒鳴ると目を覚ました。
隣の部屋から小姓(こしょう)が刀を構えて部屋の中を窺(うかが)った。信長は何でもないと言うように手で合図をした。小姓は頭を下げると下がって行った。
‥‥‥悪い夢を見ていた。
最近、毎日のように同じ夢を見ては、夜中に目が覚めた。
自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室(そくしつ)たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢だった。夢の中では、自分を殺す者が何者か分かり、くそ、おぬしなどにやられるか、と怒鳴るが、目が覚めると、そいつが誰だったのか、どうしても思い出せなかった。
今、この世に自分を倒す程の者がいるとは到底考えられない。
甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄は九年も前に亡くなり、武田家もついこの間、滅び去った。越後(新潟県)の上杉謙信も四年前に死んだ。長年、苦しめられた本願寺の一揆も崩壊した。今、信長が恐れる者は、この世に一人もいなかった。
一体、誰が、このわしを殺すんじゃ?
わしを殺して天下を手に入れる奴は何者なんじゃ?
‥‥‥くそ! 分からなかった。
信長は額の汗を拭うと天井を睨んだ。
今まで自分が死ぬなどという事を考えた事もなかったが、武田家を滅ぼして凱旋(がいせん)してからというもの、やけに、死というものが気になっていた。
親父は四十二歳で亡くなった。わしは、すでに四十九歳になっている。若い頃から五十年の生命(いのち)と割り切って、今まで生きて来た。もうすぐ、その五十歳になる。
わしはもうすぐ死ぬんじゃろうか?
わしが死んだ後、天下はどうなってしまうんじゃ?
伜(せがれ)どもがわしの跡を継いでくれるのか?
いや、奴らじゃ無理じゃろう。武田家と同じように、織田家も滅びて行くのかもしれん。
信玄の跡を継いだ勝頼は親父を越える事はできなかった。わしの伜どもも、わしを越える事はできまい。そうなると、誰が天下を取るんじゃ?
家康(徳川)か?
奴が、わしの一族を殺して天下を取るのか?
いや、奴にそんな事はできまい。となると誰じゃ?
権六(ごんろく)(柴田勝家)の奴か?
光秀(明智)か?
秀吉(羽柴)か?
それとも、小田原の北条か?
ええい、分からん‥‥‥
誰だか分からないが、自分を殺そうとする奴は絶対に許せなかった。
信長は隣の部屋で控えている小姓に、「水じゃ!」と怒鳴った。
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