天正10年(1582)の5月、毎晩のように同じ悪夢にうなされ、不眠症の織田信長は悪夢から解放されるために、とんでもない事を考えて実行に移します。
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坂本城に帰った光秀は苦しんでいた。
とんでもない命令だった。あんな命令をする主人がいるだろうか?
とうとう狂ってしまったのか?
もし、狂っているとしても、信長の命令に背く事はできなかった。
本能寺を襲撃したとして、その後、どうしたらいいのだろう?
信長を殺したとなれば、信長の家臣、すべてを敵に回す事になる。皆、信長の弔(とむら)い合戦じゃと、勇んで自分を攻めて来るだろう。信長を殺すという事は、彼らに天下を取らせるための大義名分を与える事を意味していた。誰もが自分を倒して、天下人になる事を望むだろう。
柴田勝家は今、越中(えっちゅう)(富山県)で上杉氏と戦っている。羽柴秀吉は備中で毛利氏と戦っている。滝川一益は関東を平定するために上野(こうづけ)にいる。丹羽長秀は安土にいるが、まもなく、信孝と共に四国に渡るため大坂に向かうだろう。徳川家康も安土にいる。家康が兵を挙げるには本拠地の浜松に帰らなくてはならない。皆、遠くにいるにしろ、信長が殺されたとなれば、戻って来るのは確実だった。皆、すぐには戻って来れないだろうが、一月もすれば、誰かが攻めて来るだろう。その一月の間に近畿を平定して、味方を集め、充分な作戦を練って、敵を待ち構えなくてはならなかった。もう少し時があれば、誰かと手を組む事も可能だろうが、時はまったくなかった。天下人になるどころか、全滅するのは目に見えていた。
何という事じゃ‥‥‥
わしは今まで、何のために苦労して来たんじゃ。自分が死んだ後の事が見たいという信長の気違いじみた勝手な考えのために、自分の一生を棒に振ってしまうのか‥‥‥
どうする事もできない自分が情けなかった。
光秀は坂本城内の茶室に西之坊を呼ぶと、どうしたらいいものか相談した。
「仕方ありませんな」と西之坊は床の間に飾られた大灯(だいとう)国師の墨蹟(ぼくせき)を眺めながら他人事のように言った。
「しかし、信長が死ぬのもいいかもしれんのう。このまま生きておれば、次に狙われるのは天皇家じゃ。天皇家を潰して奴が天皇になって、例の気まぐれで、やりたい放題にやられたら、たまったもんではないわ」
「確かに、そうかもしれませんが‥‥‥」
光秀は火箸(ひばし)を持って風炉(ふろ)の中に炭を並べていた。
「自分で死ぬと言い出したんじゃ。死に花を咲かせてやる事じゃな」
「上様はそれでもいいでしょうが、わしは困ります。上様を殺しても、わしは天下を取るどころか、一月もしないうちに攻め滅ぼされるでしょう」
「そうなるじゃろうな」
「困る」
光秀は風炉の上に八角釜を載せた。その茶釜は信長から拝領した物だった。
「もう遅いわ。もし、おぬしが信長の命にそむいて本能寺を襲わなかったとする。そうしたらどうなると思う?」
「所領を没収されて追放されるでしょう」
「甘いな。信長はおぬしを裏切り者として殺すつもりじゃ。大軍がここに攻めて来て全滅じゃ。おぬしは勿論の事、一族の者は皆、磔(はりつけ)にされるじゃろうの」
「そんな馬鹿な‥‥‥」
「信長にとって、本能寺での壮絶な死は最期の大芝居じゃ。奴は自分の死までも、自分のやりたいようにしないと気がすまんのじゃよ。それを邪魔したとなれば、恨みも物凄いものとなろう」
「なぜ、そんな役をわしに命じたんじゃ?」
「おぬしが丁度、そばにいたからじゃろう。それに、おぬしなら仕損じる事はあるまいと思ったんじゃろう。運が悪かったんじゃよ」
「しかし‥‥‥」
「諦める事じゃ」
「上様は自分を殺して、その後、どうするつもりなんです?」
「さあのう、どうするつもりかのう。何か考えはあるじゃろうが、何も聞いておらん。ただ、しばらくは若い女子(おなご)と二人きりで、のんびり暮らすとか言っておったがのう」
「若い女子とですか‥‥‥」
「雨が降って来たようじゃ」と西之坊が庭を眺めながら言った。
光秀も庭の方を見た。池の中に雨が波紋を作っていた。庭のほとりに紫陽花(あじさい)が咲いていた。紫陽花の花が光秀の目に新鮮に映った。毎日、見ている庭なのに、いつ紫陽花が咲いたのか、光秀には分からなかった。
「梅雨に入ったようじゃのう」
「梅雨ですか‥‥‥早いもんですな」
「時の経つのは、あっと言う間じゃ」
「あっと言う間か‥‥‥西之坊殿、ここだけの話ですが、上様は少々おかしくなってるんじゃありませんか?」
「そうかもしれんのう。バテレン(宣教師)どもの影響で、自分が天下に唯一の神じゃと思い込んでおる。おぬし、天主の最上階と五階の八角堂に何の絵が描いてあるか知っておるか?」
「ええ。最上階には三皇五帝、そして、孔子(こうし)とその弟子たち。八角堂には釈迦(しゃか)とその弟子たちが描いてありますが」
「その意味が分かるか?」
「上様が尊敬なさっている人々でしょう」
「あいつがそんな昔の人間を尊敬などするか。信長はのう、世の者どもが尊敬している釈迦だの孔子だの、すべてを描かせた部屋の真ん中に立って、お前らより、わしの方が偉いんじゃと思わせるために、ああいう絵を描かせたんじゃよ。あの部屋の真ん中に立ってみろ。描いてある絵が、すべて、自分の方を見ている事が分かるはずじゃ。しかも、よく見ると皆、神でも見ているような目付きをしておる。奴はのう、本気で天下に唯一の神になろうとしておるんじゃ」
光秀は八角堂の中の絵を思い出していた。確かに、西之坊の言う通り、それらの絵は皆、部屋の中央を見ているようだった。あの部屋に入った時、何となく変な気がしたのは、それらの視線を感じたからかもしれなかった。そんな事を考えて、あんな絵を描かせるとは、異常としか言いようがなかった。
「それにのう。神や仏をあなどった罰だか知らんが、毎晩、夢にうなされておるそうじゃ。毎晩、夜中に目が覚めて、安らかに眠る事もできんそうじゃ。罪もない人間を数え切れない程、残酷に殺して来たからのう。奴らの亡霊に取り憑(つ)かれておるのかもしれん。信長でいる限り、毎晩、うなされて眠る事もできんと思って、自分を殺す事など考えたのかもしれんな。可哀想な奴じゃ」
西之坊は信長が可哀想だと言うが、自分の方がもっともっと可哀想だと光秀は思った。
茶釜の中の湯までもが、情けない音を立てて沸いていた。光秀は水指(みずさし)から一杓(しゃく)すくうと、釜の中に水をさした。
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