天正10年(1582)の5月、毎晩のように同じ悪夢にうなされ、不眠症の織田信長は悪夢から解放されるために、とんでもない事を考えて実行に移します。
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その夜、信長は最近迎えた若い側室、小吉(こきつ)の部屋に来ていた。
小吉はこの辺りの農家の娘だった。信長が安土の城下を見回っている時、市場で野菜を売っている娘と出会い、目を疑いたくなる程、驚いた。その娘は、かつて、信長が本気で惚れた女、吉乃(きつの)に瓜二つだった。みすぼらしい着物を着てはいたが、顔付きから、しゃべり方までそっくりだった。信長は思わず馬から飛び降りて、娘の前に立った。
娘は驚いて脅(おび)えたが、どうする事もできなかった。信長は何も言わず、娘の顔をじっと見つめていた。信長は家来に命じて、娘の売っていた野菜をすべて買わせると馬に乗って去って行った。城に戻っても、その娘の事が忘れられなかった。
吉乃は灰と油を扱う商人、生駒(いこま)家宗の娘だった。商人と言っても江戸時代以降の商人とは違い、武力を持ったれっきとした武士だった。当時、生駒屋敷には家宗を慕って、諸国から集まって来た浪人者が数多く居候(いそうろう)していた。うつけ者と呼ばれていた頃の信長も、各地の情報を手に入れるために、清須(きよす)から馬を走らせ、時々、顔を出していた。西之坊も生駒屋敷でゴロゴロしていた仲間の一人で、生駒屋敷において信長と出会い、信長に興味を持ったのだった。藤吉郎と呼ばれていた頃の秀吉や、秀吉の家臣となる蜂須賀小六、前野将右衛門なども、生駒屋敷に出入りしていた者たちだった。
吉乃は信長の従兄である土田(どた)弥兵次のもとに嫁いでいたが、弥兵次が戦死したため実家に戻って来た。弘治二年(一五五六年)九月の事であった。信長は吉乃を一目見て惚れてしまった。信長二十三歳、吉乃十九歳だった。当時、信長には正妻として美濃の斎藤道三の娘、胡蝶(こちょう)がいたため、信長は吉乃を生駒屋敷に置いたまま側室とした。
吉乃は翌年、信長の長男、信忠を産み、その翌年には次男、信雄、そのまた翌年には長女、徳姫を相次いで産んだが、その後、体の具合が悪くなり、二十九歳で亡くなってしまった。信長は吉乃の死後、しばらくは何も手がつかず、茫然と日々を過ごしていた。吉乃が亡くなってから、すでに十六年も経ち、大勢の側室に囲まれていても、未だに、吉乃の面影を忘れる事ができなかった。その吉乃に瓜二つの娘がいた。その娘は信長が初めて会った頃の吉乃にそっくりだった。
信長は森蘭丸に命じ、娘を丁寧に連れて来いと命じた。娘は信長の側室になり、小吉と名付けられた。
小吉と一緒にいると、信長は不思議と三十年近くも昔に戻ったような錯覚を覚えた。今の自分を忘れ、若返ったようにはしゃいでいた。吉乃にしてやれなかった様々の事を、この娘にしてやろうと思った。この娘のためなら、何でもしてやろうと思っていた。
「小吉、お前の夢は何じゃ?」
信長は小吉の若々しい肌を眺めがら聞いた。
「夢ですか?」と小吉は目をあけた。
「そうじゃ、お前の夢じゃ」
「ここに来る前は、あたし、お侍さんのお嫁さんになるのが夢でした」
「ほう、武士の嫁か」
「でも、こうして、お城の中で暮らすようになってからは、あたしの夢は、どこか静かな所で、お殿様と二人っきりで暮らす事でございまいす」
「わしと二人っきりで暮らすのか?」
「はい」と笑うと小吉は信長の体にまたがり、信長の引き締まった胸を撫でた。
「二人っきりで、小さなおうちで、のんびりと暮らします」
「ここから出て、小さなうちで暮らすのか?」
「はい。ここには贅沢な物がいっぱいあります。でも、お殿様は忙しくて、あたしの所にあまり来てくれません。あたし、お殿様とずっと一緒にいたいの」
「お前とずっと一緒にいるのか?」
「はい。朝から晩まで、そして、夜もずっと」
「一緒にいるのはいいが、どうやって食って行くんじゃ?」
「二人で畑仕事をします」
「わしも畑仕事をするのか?」
「はい」
「わしは畑仕事など知らんわ」
「大丈夫です。お殿様なら、何だってできます」
「お前と二人で畑仕事をして暮らすのか‥‥」
「はい。きっと、楽しいと思います」
「そんな事は夢じゃ」
「はい、夢です。あたしの夢です」
小吉は信長の体の上に倒れ込んだ。
「可愛い奴じゃ」と信長はニコニコしながら小吉の長い黒髪を撫でた。
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